最も悲しい日となった1994年5月1日

1994年5月1日にF1世界選手権のヨーロッパラウンド初戦のイタリアGPが開催されました。場所はイモラ・サーキットです。「アイルトン・セナ~音速の彼方へ」では使用されていませんが、1ヶ月前にイモラサーキットでテストしています。そしてあのコーナーにたって「今年このコーナーで誰かが死ぬよ」と話している画像があります。実際に作品の中には編集の都合で組み込むことが見送られていますが、セナがイモラサーキットの状態に危惧していたことが、まさにセナ自身にも起こっただけではなく多くの事故と負傷者が発生した「最も悲しい日」となりました。

サンマリノグランプリ

BBC解説者が多くの事故に負傷者を出したこのイタリアGPのことを「私の知る限り、グランプリ史上最も悲しい日」といいましたが、サンマリノGPは多くの悲劇がありました。セナは前日に恋人に「走りたくない」と電話で話していたことからも、決勝レースの5月1日になる前にも事故がありセナは恐怖心と戦いながら、5月1日を迎えています。

音速なあなたへ

4月29日:金曜日

セナは1994年F1世界選手権が始まり、2戦までノーポイントの結果だっただけに「ここから開幕戦だ」と強い意志で第3戦イタリアGPに臨みました。予選1日目でレースのスタート順位を決める最初の予選で、セナと同じくサンパウロ出身のルーベンス・バリチェロが時速225キロで縁石に乗り上げ空中に飛び上がるという事故が起きます。

バリチェロは衝撃で意識を失ったまま、垂直落下した後に数回横転して裏返しで停止して、医療チームの手当てを受けメディカルセンターに搬送されました。セナはバリチェロの入院先に家族よりも先に訪れて、バリチェロが意識を取戻すまで付き添っていました。バリチェロは結果的に鼻骨を骨折だけで無事でしたが、目覚めたときにセナがいてびっくりしたそうです。可愛がっている後輩が事故に見舞われたことで、セナはかなり動揺したと思います。

4月30日:土曜日

予選開始から20分後に、ラッツェンさんの愛称で親しまれていたローランド・ラッツェンバーガーが、ビルヌーヴコーナー手前でフロントウィングが脱落してコントロールを失った状態になり時速310キロでコンクリートウォールに正面から衝突しました。衝突の衝撃でそのまま病院に搬送されましたが、内蔵破裂や頭蓋骨骨折でほぼ即死の状態で33歳で亡くなるという事故で、F1レースウィークの時に発生した死亡事故は8年ぶりで関係者は大きなショックを受けます。もちろんセナも取り乱し、心理的に不安定な状態になり恋人へ恐怖心をさらけだしていますが、僕は強いから大丈夫だと落ち着き翌日を迎えます。

F1サイコー!

5月1日:日曜日

セナはポールポジションからの決勝スタートでした。そして1コーナーでもセナは首位をキープしていましたが、後方で事故がありマシンのパーツが空中に舞い上がり安全フェンスを飛び越えて9名の観客が軽傷を追うという事故でした。そのためセーフティーカーが導入され、低速で走行する間にタイヤ温度が低下するという懸念を表明しています。

コース上の破片が除去されてセーフティーカーが退き、再スタートはローリングスタートで再開されました。そして再スタートから7週目で現時時間で午後2時17分に、「タンブレロ」の超高速左コーナーで時速312キロでセナがトップで走行中に、そのまま直進したままセナのマシンFW16はコースアウトして、コース右端のコンクリートウォールに激突していますが、セナは壁に衝突するまでの0.9秒間にブレーキング、そしてシフトは6速から5速へダウンしていたため、時速312kmから時速211kmという急減速した状態でコンクリートウォールへ激突して、マシンは大破しました。

壊れたFW16からセナは出されてそのまま医療チームがヘリコプターで、マジョーレ病院に搬送され、レースは事故から37分後に再び再開されました。

シューマッハがゴールしてから2時間20分後の18時40分に、アイルトン・セナの死亡が発表されました。公式の死亡時刻は14時17分で、検死解剖の結果セナの死因は「大破したマシンのサスペンション部品が、ヘルメットを貫通したため」と結論でした。

セナの生前の言葉に、『もし死が自分をこの世から連れ去るのなら、カーブの途中で全力で連れ去って欲しい。』と語っていますが、苦しむことなく音速でポールポジションをキープしたまま音速の彼方へ、神さまの元へと召されました。

アイルトン・セナ・ダ・シルバは、生まれ故郷のブラジルサンパウロ市にあるモルンビー墓地で眠っています。

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